厚木中学校のあゆみ 昭和50年〜現在

昭和51年(1976)落成の現校舎

「丁度、私たちが入学して間もない頃実施された旧校舎から近代的な新校舎への移転。私たちは旧校舎を知る最後の年代でもありますが、学校が迎えたこの変革を体験し、新しい環境に置かれることで、自分の気持ちも新しく切りかえることができた気がします。また、私はこの3年間で人間にとって一番大切な「人と人とのつながり」というものも学びました。社会の縮図のような学校組織の中で、人々が助け合い、力を合わせて努力することが無限の力になるということ。こうした場を提供し私たちを導いてくれたことは、その後の人間形成に大きく貢献しているのだ、今でははっきりと言えます。」

(昭和54年3月卒業生)

現校舎

「木造校舎で、羽目板の節穴を紙で貼ったり、廊下に補習板を打ち付けたり、ガラスがはずれないように釘やパテづけをしたりして、皆で最後まで校舎を大切に使っていた。」

(昭和54年職員)

「木造校舎とのお別れ、それに伴う新校舎建設と移転という大きな出来事。
 校庭のない生活が強いられて、よい場所は上級生に占領され、1年生は渡り廊下や空地などに追いやられている姿があちこちで見受けられました。心身共に成長盛りの生徒たちにストレスがたまってしまうのではないかと心を痛めました。
 年が明けて昭和51年、晴れて新校舎は完成しました。目の前に聳え立ったという感じの美しい新校舎、生徒も先生も拍手喝采の中で移転作業に頑張ったことが昨日の事のように浮かんできます。」

(昭和52年職員)

昭和52年(1977)厚中通信創刊

「道徳教育の自主研究校として研究発表会を開催しました。何より忘れられないことは『限りない可能性の開発』をめざす生徒指導の実践であり、その一つとして『厚中通信』の創刊と継続に指導部が一体となって当たったことです。無限の可能性を持つ生徒が宝、それに磨きをかける教師の責務と誇り、PTAをはじめ地域の方々の理解と激励、当局のご指導、これらが一体となり大きなうねりの中で厚中は燃えていました。」

(昭和52年職員)

厚中通信創刊号

昭和57年頃

「僅か1ヶ月の一時帰国の生徒が本校に編入されました。幸い学級生活も明るく楽しく過ごす事ができ、帰国する際その生徒は「ひとりで通学できるし、買物も自転車で行けて本当に嬉しく、日本は良かった」と。また、中国残留孤児を親に持つ姉妹が同学年に編入され、揚州友好使節団の個人生活に通訳として日中の友好に一役尽くしてくれました。米国へ留学する卒業生、海外帰国子女受入等、教育の場にも国際化が進んでいました。」

(昭和58年職員)

昭和57年頃の生徒たち

昭和59年頃

「中学校が全国的に荒れた時代がございましたが、厚木中も例外ではなく、騒がしい日々も多々ありました。当時、県や市から人権教育(同和教育)の研究指定も受けて、少しずつ研究の成果が生徒の活動にも現れ始めてきたのも事実でございます。そのため、少しずつではありますが、生徒に落ち着きもみられるようになってきました。その時の記念として厚木中に残っているのは、「花壇」、とくに生徒の造ったものは、体育館と教室棟の間に細長くあるものです。当時の必修クラブ「園 芸クラブ」が中心となって造ったものなのです。もうひとつは「第二職員室」です。」(※新体育館建設によってこの花壇の植栽は一部移動されました。)

(昭和60年職員)

花壇

昭和60年頃―校舎中庭にて

「人権」を基盤とした教育実践を通して研究してきた流れの中から、生徒会の『厚中から弱い者いじめをなくそう』宣言が生まれ、この「いじめ」が当時は教育界でもさほど問題化していなくて全国的に珍しく、注目を浴びて2・3の教育関係雑誌で紹介されました。
 厚木中学校は多くの先輩方の尽力により輝かしい伝統が築かれ、それが連綿と引き継がれた校風は、市街地に位置しながら校庭の樹木と共にPTA専用の花壇と生徒会が中心に管理する学校花壇が見事に咲き競ってっており、昭和62年度に県「学校環境緑化コンクール最優秀賞」受賞というすばらしい教育環境の恩恵に浴しながら、教員を始めPTAや地域の方々の惜しみないご指導とご支援をいただいてきたことに感謝します。」

(昭和61年職員)

生徒たち

昭和62年頃

「昭和50年代後半はどこの中学校も構内暴力に荒れた。何とかしなければとの思いから、それまでもかなり細かかった校則が更に微に入り細をうがつ様相を呈した。靴下の色から女生徒の結髪のゴム紐の色までそれは厳しいものだった。先生たちもきまりである以上注意しなければならないジレンマもあったと思う。こうした校則を見直そうと生徒会が中心となって一学期から取り組んだ。全校生徒からのアンケート調査臨時生徒総会等々。職員間でも何回か会議を開いた。きまりをゆるめたら又荒れはしないかと心配する先生たちがいたことも事実だ。
 11月の臨時総会で20項目が改正された。服装等に関しては中学生らしいという文言で統一された。生徒自らが決めたという意識が働くのか、その後奇抜な服装など皆無だった。
 教員と生徒、生徒同志の人間関係、心の通い合い、そして何よりも一人ひとりの人格を尊重しようという考えが基本にあった校則見直しだったと思う。」

(平成1年職員)

昭和43年当時の生徒会1

「なんといっても自分にとっては生徒会の活動が最も大変なことであったと同時に一番思い出深いことです。毎日のように遅くまで残り「規則改正」に取り組みました。今にしてみれば小さな自由ですが、学校生活が生徒にとって少しでも有意義になるようにと一生懸命頑張ったことを思い出します。その後の厚木中学校の規則がどう変わっていったかはわかりませんが、その歴史の一部でも自分が関係していることを誇りに思っています。」

(平成2年3月卒業生)

昭和43年当時の生徒会2

「生徒からアンケートをとると実に様々な意見が返ってきます。「短ランやボンタンを認めろ」等、今読み返すとなぜと思うような事も数多くありました。我々はどこまでをボーダーラインとして認めて良いのかという事で苦心したことをよく覚えています。約束事には必ず理由が存在する筈です。その理由を徹底的に理解していく事が社会人であろうと中学生であろうと必要なはずです。理由がなければ変えていく、これが真の改正なんだと今更ながら感じています。」

(平成3年3月卒業生)

生徒たち