厚木中学校のあゆみ 昭和40〜49年

昭和40年代−本厚木駅

「市内の様子は日々にかわりました。」「街の祭りの日は授業で半日で終わりで、生徒は御輿を担ぎに町へ出ていきました。今、懐かしく思い出します。」

(昭和42年職員)

昭和40年代の本厚木駅

昭和42年(1967)創立20周年当時の学校周辺

「入学した頃の学校はまだ木造で、中庭には花壇があり、季節ごとに咲く花はとてもきれいでした。校舎の位置も体育館をはさんで今の校庭の方にありました。その頃の校舎は古くて、図書館や家庭科室は渡り廊下でつながっていましたが、少し離れたところにあったので、金田一少年の漫画に出てくるような暗い雰囲気で、いろいろな噂があり、面白可笑しく伝わっていました。」

(昭和42年3月卒業生)

創立20周年当時の学校周辺

昭和42年(1967)創立20周年当時の校舎の中庭

「当時私は野球部に所属しており、クラブ活動の時間になると周りは田圃だらけのバックネット方向からバッティング練習を始め、センター方向にある体育館の丸い屋根を目指して白球を打ち返していました。そして野球部の練習が終わると部員と共に体育館へ行き、バスケット部や剣道部、そして女子のダンス部がいなくなるのを見計らって今度はバスケットの練習をしていました。当時のバスケットリングは紐ではなく金属製の鎖でできており、ロングシュートを決めたときのあの”シャキーン”という音は今も耳に残っています。」

(昭和43年3月卒業生)

創立20周年当時の校舎の中庭

昭和40年代−廊下

「『床に顔が写るまで』 当時、校舎は木造でした。放課後、生徒達は掃いて雑巾掛けを廊下教室階段等、当番が分担してあるのです。生徒は部活動はしたいし、遊びもしたいし、いろいろご多忙なのですから大変! しかし、さあどうでしょ。放課後現場へ直行した時、みんなそれこそ素足です。一生懸命床を拭いているではありませんか。「ねえみんな、給食の牛乳の残りがあるからあれ使おう」誰ともなく。「そうだそうだ」牛乳の薄め液で磨きこんだから、さあ床も廊下もピカピカ。みんなニッコリ。あの頃は牛乳瓶での給食でした。空き瓶のゆすぎ汁の有効化でした。「先生、顔が写ってる。」と、私を見つめてくれた輝いていた生徒達の瞳の輝きは忘れられません。」

(昭和43年職員)

廊下掃除の様子

昭和48年(1973)の校舎

昭和48年(1973)校舎遠景 現校舎建設工事前の栄光橋

「特に印象に残っているのは体育館での事。部活動などはもちろんのこと、私達も迎えた成人式などに使用されたことを覚えています。体育館の正門には橋がかかり、その下には農業用水が流れていました。用水路は田村堀といい、夏部活を終えてかえる頃には蛍が出ていて穏やかな気分にさせてくれました。その用水路も今ではふさがれて整備され歩道になっています。橋もなくなり昔の面影はありません。橋の名前は栄光橋といって、現在でも栄光祭という名称で残されています。」

(昭和44年3月卒業生)

昭和46年(1971)11月−第1回栄光祭

「校歌の一節『栄光の道つねにゆく』に因んで『栄光祭』と名付けられた第1回の文化祭が行われたのは46年11月のことでした。生徒会を中心に時間をかけて話し合いを積み重ね、「行動・感動・友情」をテーマとして、生徒会・PTAが一体となっての活動が展開されました。
 第1日は、ブラスバンド部の演奏による感動のオープニングから、新制作座の熱演する名作「泥かぶら」を保護者共々鑑賞しました。日頃、生の演劇など見る機会の少なかった生徒達にとってそれは感動であり、食 い入るように見つめていた姿が印象的でした。
 第2日は、合唱コンクール。それにも即席の母親コーラス部が出演し、わずか数回の練習とは思えないような美しいハーモニーを響かせておりました。午後はみんなで踊ろうフォークダンスの集い、これにもなれないステップを賢明にふむ保護者の方の姿が見られました。
 かくして親と子が一体となって作り上げた第1回栄光祭はそれぞれの胸に強烈な感動として刻みつけられて終わりました。」

(昭和48年職員)

第1回栄光祭

昭和40年代後半 体育大会の様子

「中学何年のときかはっきりしないが、あるとき担任の先生に呼ばれて職員室に行くと、「おいちょっとこれ着てみろ」という。見ると上下紺色のジャージの運動着だった。私のほかにもう一人女子生徒がその場に呼ばれていたが、標準的な体型の我々は、厚中がその後導入しようとしていた「ジャージ型運動着」の試着モデルにさせられたのだった。今でこそジャージ運動着は一般的だが、当時はクラブ活動(部活をこう呼んでいた)の時、部によって徐々に自由に使われていただけで、体育の時間や屋外の活動では「トレパン」と呼ばれる薄手の白い長ズボンや男子は白、女子は紺色の短パン(ブルマ?)をはき、上は体にぴたっとしたこれも白の運動着が基本だったと思う。しかしこうした運動着も我々を最後に廃止となり、それ以降の学年からは一斉に「ジャージ」に切り替わったと記憶している。学校指定の色とメーカーのジャージの着用が義務付けられるというまさに“革命的”な出来事を迎えた。」

(昭和47年3月卒業生)

体育大会

昭和49年(1974)頃の本厚木駅

「学校及び周辺の様子は大きく変わっていきました。」

「あの頃は、学校の帰り道に友達と大きく回り道をして歩き、どれだけ話しても話が尽きなかったものですし、体育館のコンクリートに腰掛けて空を見ながらクラスメートと雲についての物語を作ったりもしました。今、中学時代に自分が何をやりたかったのか、どんな夢をもっていたのか−それを反芻したりしています。中学時代には、色々なタイプの人がいて、悩みや苦しみや喜び、たくさんの思い出が詰まっていて五目飯のように味わい深い時代でした。厚中で学ぶ後輩のみなさんにも是非この時代を満喫してほしいと願っています。私は明るくテンポの良い厚中の校歌が今でも大好きです。」

(昭和49年3月卒業生)

昭和49年(1974)頃の本厚木駅